Memo

入社三年目の日。

くまちゃんが、山アリ谷アリ山アリ山アリだったねと

言っていたけれど、本当にそんな感じだ。



みーさんと中華を食べに行く。

日替わり定食:ザーサイ・エビチリに白いご飯、

なめことたまごのスープと水菜をのせたお豆腐。

同じものを頼んだのに

運ばれてきた二人の皿の種類やら

器の中のなめこの量やらが明らかにちがっていて

アバウト具合がクスリとおかしかった。



夜ひとり居残り。



帰り道は、隣の駅で降りて

ぐるり大回りして、ゆっくりと歩いた。そんな気分。

途中でTSUTAYAに寄り道して

「Wallpaper For the Soul」*1「そーだそーだぁ!③」を購入。



家に帰るとくまちゃんのあしあと。

ブロッコリーに漬物にミニトマトと黒飴、

置いていってくれたポンカンをパクパクたいらげてしまった。*2



時どき望んだように音信不通を。

そんな時、ふわふわぼんやりとした心持ちが続く。

すぐにほどけはするけれど


確固たる大事なひとに対してすらぼんやりだなんて。

大切にしていて、大切にされていて



それでも言葉にならない朝があり、昼が過ぎ、夜になっていく。

いつもそんな風にしかできないことが悲しい。



フタを開けたらいつでも

終わりが用意されている気がしてならない。



終わることは普通にあることで

失うことはごく普通に起こりうることだ。

そんな普通を思い浮かべるだけで涙眼の真顔になる。



ふっと世界が真っ白になるところを想像する

わたしもその真っ白にとけて

何もかも、何もかもが、もう ただひとつになっていく



とけてしまうのなら、その普通も受け入れられるのだと納得する。



これが夢で何かの拍子に、たとえば、しゃぼんが割れた瞬間に

覚めるとして、大きな波に飲み込まれるとして

波立つ気持を静かになだらかに

変えていけないはずはないと、思う。

ヒトリでも大丈夫なのだと言い聞かせる。



フタを開けたときの気持を前準備して心積もりをして



それが誰であれ、何であれ

何が消えても誰を失くしても、いつか心は湖になるって知ってる。

時間は気が遠くなるくらいかかるけれど、

弱さをくるんだ、つめたさの防御のように

底で眠る湖がここにあることを、いつも感じている。


*1:カワセキくんやその他わたしがいいなぁって想うひとは皆好きというので気になっていたもの。実際のところいっぺんでだいすきだと解った。

*2:飴もポンカンも袋が開けてあり、なんだか三匹のクマを思い出した。